2022.08.10

直島「時の回廊」「ヴァレーギャラリー」

娘が、一年ぶりに帰省しました!
年末年始、春休みは、卒業設計と卒業制作展のため帰省できず、
大学院に進学したら前期の課題とコンペ。

これまでの人生で最も長く会っていませんでしたが、がんばっているとわかっているので、
不思議と寂しくありませんでした。

しかし、8月9日の夜、空港へ迎えに行き、顔を見て、ハグすると自然と涙が。

翌10日は、ゆっくりと直島へ行きました。
まずは、杉本博司さんの新作「時の回廊」。

ガラスの茶室「聞鳥庵」と、ホテルのラウンジだった場所を
写真の展示空間として構成。






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ラウンジに展示された、ツートーンの作品「オプティクス」シリーズは、
光がプリズムで七色に映し出されたものをポラロイドで撮影し、デジタル加工した近作。

本当に美しい作品でした!




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もう一つの目的は、これも新作「ヴァレーギャラリー」!
現在は、草間弥生さんの銀色に輝く球の作品「ナルシスの庭」と、
小沢剛さんの、豊島の産廃処理から出るスラグでつくった88体の仏「スラグブッダ88」。

銀色の球は視覚的に重量を麻痺させますが、池で風になびき、
安藤忠雄による展示空間の光の量に呼応します。








いつも、直島に行くときは、朝一からのフルコース!笑
本当にゆっくりと島の時間を堪能し、最後は三分一博司さんの「水」と「住」。
船の時間まで、福武財団の内田真一さんとゆっくりと計画について話もできました。

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2021.09.19

追悼 石に生きた和泉正敏さん

9月13日、和泉正敏さんが亡くなりました。
14日、帰省する娘を高松空港まで送り、娘と談笑していた際、師山本忠司のご長女で、事務所の事務をされていた真知子さんからの連絡で知りました。

 

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昨年の10月、早稲田大学の学生が、卒業論文で「イサム家」について書きたいとメールがあり、イサム・ノグチ財団の事務局をされている、和泉さんの長女で高松一高の同級生益田美保子さんに連絡を取り、見学させていただいた際に、和泉さんとゆっくりとお話しすることが出来ました。その際、「お年を召されたな」「少し元気がないのかな」と感じ、香川大学から京都工芸繊維大学大学院へ進み、松隈洋先生の研究室に在籍する、矢野孝明くんに和泉正敏さんの仕事を修士論文のテーマにすることを勧め、5月には1回目のインタビューをし、7月に、津で行われた「石楽展」で、大作「天空の庭」を含む60点の和泉さんの作品をじっくり拝見し、2回目のインタビューを行う直前の出来事でした。

 

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すぐに美保子さんに連絡を入れると、コロナ禍ということもあり、財団の理事の方にも事後報告としますとのことで、残念ながら最後のご挨拶ができませんでした。

 

1938年11月24日生まれの和泉正敏さんは、15歳で家業の和泉屋に入社。最初は、「石を取る」という採掘の仕事から始めました。これは、採掘場で、矢穴と呼ばれる穴をあけ、そこに楔を打ち込むという、いわば「石に目を読む」仕事です。その後、通常の石工の仕事をし、この両方が出来る人は通常いないようです。

 

1963年、庵治町に「船がくし苑」が完成します。山本忠司から和泉さんとの最初の仕事だとは聞いていましたが、調査の中で、3階建ての内外石張りの巨大な建築だと判明!日本建築学会賞を受賞する1973年「瀬戸内海歴史民俗資料館」の10年も前の出来事です!完成後、山本忠司の助言により、1964年和泉さんは「石のアトリエ」を設立。この年の11月、山本忠司と金子正則元知事に紹介され固い花崗岩ならではの作品の可能性を求め、庵治・牟礼での制作の場を模索するイサム・ノグチの制作パートナーとなります。

 

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最初の仕事は、シアトルの「黒い太陽」です。直径3mの巨大な作品です。ソリッドのブラジル産花崗岩を牟礼の港で、ほとんど完成手前まで削り、「石のアトリエ」の作業場で完成させます。和泉さんは、この作業場にあるようやく布団が引ける程度の和室に泊まり込んで作業することもあったようです。

 

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和泉さんが、世界的に評価されているのは、まずは、イサム・ノグチさんの制作パートナーであること。西洋の石の彫刻は、石のすべてを削りますが、イサム・ノグチさんは、次第に自然の岩肌を残し、手を入れた部分と調和させる手法で作品へと昇華させます。最後には、自然石を組み合わせるという作風に。この作品の変化は、和泉さんとの仕事が大きな影響であることは間違いありません。

 

そして、山本忠司との仕事から始まる、建築家との仕事。
最後に、自らアーティストとして、石彫家和泉正敏の仕事を残します。
石彫家としての仕事は、1982年に「大阪ビジネスパーク」に設置した作品の依頼から始まります。イサム・ノグチさんが「コラボレーター」と評する和泉さん。25歳からイサムさんの多大な影響を受けながら作品作りに携わってきた和泉さんが、イサムさんとは違ったかたちでの表現を模索することは簡単でなかったことと思います。そこで、和泉さんは、自然石の組み合わせという手法を編み出します。これが、逆にイサム・ノグチさんに影響を与えることとなります。

 

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実質的には、イサムさんの死後、1990年代に入り、作品づくりに取り掛かります。その中で見出した和泉さんならではの「手法」は、石工の原点である様々な「技法」でした。
15歳で石工となった和泉さんは、まず山から石を「採る」採石の仕事をします。「矢穴」をあけ、楔を打ち込み石を採り出します。ここで必要なのが「石の目を読む」ということです。その後、すべての工程を会得するという、石工としては珍しい経歴を持っています。そして、石彫家和泉正敏は、石工としての、「割る」「切る」「はつる」「削る」「たたく」「磨く」の「技法を用いて、石の魅力を最大限に引き出す「手法」へと昇華させたのです

 

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2回目のインタビューは、親方和泉さんのまわりで一緒に仕事をしてきた人たちでした。石と向き合う真摯でそして厳しい姿勢。イサムさんの死後、庭園美術館としてオープンするまで、山本忠司と何度も何度もアメリカの財団と協議を重ね、事務所に毎週のように来ておられました。和泉さんは、ぼくたち弟子たちにもいつも丁寧に接していただき、職人らしく寡黙な方ですが、話すとウィットにとんだ言いまわしをされ、笑顔がとても優しい方でした。
亡くなった直後、「お会いして、素晴らしい作品で、イサムさんも山本先生も喜ばれていると思います、とお伝えしたかったです」と伝えたところ、「林君たちが天空の庭に行ってくれたことを親方はうれしそうでしたよ」と。
山本忠司の自邸の改修工事中ですが、前庭の部分を和泉さんに相談し、「現場を見ておきます」と言っていただいただけに、残念でたまりません。
10月の「石楽展」では、和泉さんの講演会もあり、楽しみにしていたのですが。
和泉さん、素晴らしい仕事をありがとうございました。
功績は、しっかりと後世に伝えていきますので、安らかにお休みください。
心よりご冥福をお祈りいたします。

 

 

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2017.09.22

豊島再訪/「豊島美術館」

現在、浪人をしている娘は、建築系の大学にすすむようで、
AO入試に向け、自己推薦文を書くにあたり、「豊島美術館」に行きました。
 
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2010年、瀬戸内国際芸術祭を巡った時、豊島を巡りましたが、
「豊島美術館」はまだ工事中でオープン前でした。
その時、小学6年生。
中学に入ると、部活や勉強の都合で訪れることが出来ず。
その間、反抗期に入り、あいさつも会話もつっけんどん。
ぼくもそうでしたが、大人になる過渡期で、
本人はとても葛藤していたのだと思います。
今年に入り、受験校の決定など会話する機会が多くなり、受験を終えた頃から、
以前のように屈託のない笑顔で話をしてくれるようになりました。
ともに、受験を闘ったという意識からでしょうか、
ともかくひとつの苦難を乗り越えたようです。
 
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2年前、高校2年生の時、東京へオープンキャンパスに行きました。
「商業施設の設計がしたい」という娘を、表参道に。
ここには、世界の名だたる建築家のファッションビルが建ち並んでいます。
安藤忠雄「コレッツィオーネ」、ヘルツォーク&ド・ムオロン「プラダ」、
青木淳「ルイ・ヴィトン」、妹島和世+西沢立衛「ディオール」etc.
学生時代から、何度も訪れた場所です。
その際も、最小限の説明しかしませんでした。
もちろん、普段なら、建築家が何を考え、何をどう表現しているのか
細部にいたるまで解説します。(笑)
それでも、その時は「ふ~ん、よく知ってるね」という塩梅。(笑)

その頃から考えると、娘と建築やアートについて、
また、それに関わった人たちの話をするのは、夢のような至福の時間です。(笑)
今回は、ふたり旅。
 
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台風の過ぎ去った後、快晴の瀬戸内海を渡り豊島へ。
家浦港から自転車で「豊島美術館」へ。

2007年香川県建築士会の講演会の講師として、
建築家西沢立衛氏をお招きした際、
この「豊島美術館」の素となる計画案のお話を伺いました。
当時は、直島に建設予定でしたが、瀬戸内国際芸術祭の開催が決定の後、
現在の場所での計画となりました。

島の起伏の頂点を越え、消える道の向こうに海が見えます。
その道を下ると、眼前にはパノラマに広がる瀬戸内海、
左手には豊かな表情の棚田。
そして、右手のこんもりとした森に包まれるように「豊島美術館」が見えます。
 
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敷地に入り、斜面に埋めこまれた受付でチケットを購入し、美術館へ。
美術館へは、小径に導かれます。
木々の木漏れ日を抜け、海に開き進みます。
美術館に近づいたところで、靴を脱ぎます。
 
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美術館の空間は、3次元に膨らんだ260mmの厚さのコンクリートの
床板で出来ています。
小さな入口と、2か所の大小の円形に切り取られた開口にガラスはなく、
空の明るさが美術館内部の照度となり、刻々と動く太陽により、
照度分布が変化します。

ちなみに、内部は撮影禁止ですので、掲載の写真はネット上のものです。
 
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よくみると、床には水滴が散在しています。
「母型」と名付けられた、内藤礼さんによる作品です。
床から生まれた小さな水滴は、しっかりと膨らみ、
耐え切れなくなると勾配によって動き出します。
するすると動く水。
ゆっくりとゆっくりと、キラキラと動く水。
寄り添う水。
離れる水。
 
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床と水にやわらかく反射した光に満ちた空間。
初めて訪れた時は、空間を意識するあまり気を付けていたつもりでしたが、
靴下がびちょびちょに濡れました。(笑)

台風が過ぎた後のやや強い風が、
いつもよりわずかに強い木々の音を生んでいました。

西沢さんのコンセプトは、当初より水滴でした。
当初のアーティストは、具象の彫刻家でしたが、
空間のイメージが明確になる中で、内藤さんに。

まったく外の空間。
洞穴の奥の空間。
場所により開放感・閉塞性が異なります。
2か所の円形の開口部のリボンは、風に乗ってゆっくりと舞う。

建築空間と作品が不可分な関係となり、どちらも生命の権現である水からなる。
 
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直径2mmの186か所から生まれる水。
拝観者は、静かにゆっくりと水の動きを見つめる。
移ろいゆく時間に、自らの存在を重ねる。
自己の内奥に深く問いかけるような、豊かな空間でした。
 
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工事施工は、親友の池口泰彦さんがベネッセ営業担当の鹿島建設。
監督は、豊田郁美さん。
この3次曲面のコンクリートを如何にきれいに仕上げるのか苦慮した豊田さんは、
毎朝、ゆで卵を食べ、どうすればきれいに殻が外せるのか研究したようです。
結果、土を盛って締固め、表面にモルタルを塗って型枠としました。
床には、撥水剤が塗布されています。
水のはじき加減で、水滴の形状、動きが変わります。
内藤さんと何度も試行錯誤を繰り返したようです。


同級生の建築家安部良さんの「島キッチン」でスィーツを食べ、
クリスチャン・ボルタンスキーの「ささやきの森」へ。
木々を深く分け入ると、落ち葉を踏む足音の向こうに、涼やかな音。
願い事の書かれた札が生む、風鈴の森。
 
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「豊島横尾美術館」では、2010年の民家での作品の赤い石の庭が蘇る。
横尾忠則のエネルギー溢れる世界観に圧倒される。
 
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最後は、当時、竣工へ向けて追込み工事中だったトビアス・レーベルガー。
ここでも、スィーツを。(笑)

真っ黒に日焼けし、無邪気だった小学6年生の娘と廻った豊島。
自我の葛藤を乗り越え、
また屈託のない笑顔を見せてくれるようになった19歳の娘。
当時の印象を振り返りながら、年齢を重ねた今だから出来る、
作品について、建築について、作家についての会話は、
台風の風が厚い雲を拭い去った空、
多くの雨水をなみなみと湛えた瀬戸内海の豊かな表情と共に、
忘れられない時間となりました。
 
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まだまだ、受験は続きますが、今日のこの時間が
がんばるエネルギーとなればと願います。

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2016.10.08

アレクサンドル・ポノマリョフ 「水の下の空」

海岸に5艘の船がゆらめく。とても詩的なドローイングでした。

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しかし、11mの船が風に揺れる。技術的にそんなことは不可能だと直感。

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とにかく、これを現実化するのは困難でした。
もう、タイムリミットというところまで来て、ようやく解決策を見つけました!
ポノマリョフのドローイングに忠実に考える。
船全体を支える梁の重心を、柱から吊る。
船のその他の部材はとにかく軽くする。

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槇塚鉄工所の槇塚登さんと相談し、模型を作成してもらい確認しました。

丸亀沖の本島は、塩飽(しわく)水軍の拠点の島で、海運技術に優れ、
咸臨丸の船員の多くは本島の水夫でした。
大工の技術にも優れ、笠島地区の街並みは端正でとても美しい。
山本忠司の事務所での一つの仕事が、この笠島地区の街並み保存でした。
年に3棟、伝統的な街並みに合うように保存修復。
四国職業能力開発大学校の故牛尾徹先生と日参した懐かしい日々。
今回、改めて笠島の街並みのクオリティの高さに驚かされました。
牛尾徹先生の魂が宿っています。

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笠島地区の少し北側。
砂で出来た船が風で揺れる。
足元の船影は、水盤のようで空を写す。
瀬戸内に浮かぶ本島の悠久の時間を感じさせる作品となりました。

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2016.07.18

Supermachine + 林 幸稔/林幸稔建築設計事務所 「瀬戸内アジア村」

北川フラムさんから、夏会の目玉となる、高松港での拠点となる「瀬戸内アジア村」の設計を、
タイでユニークな建築をつくり話題のSupermachineとの協働で依頼されました。

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瀬戸内国際芸術祭の舞台は、瀬戸内の島々。
高松港から島々へと渡ります。
その拠点となる高松港での、タイの伝統工芸などを紹介する拠点を、
竹とパカマ(布の名称)で構成するというプロジェクト。
春会期の準備中に、リーダーのジャックさんとスタッフと現場確認及び打合せ。
既存の公共施設内での設置となるため、制約が多いのですが、
とにかく、プランが出てきた時点で、検討することに。
ジャックは、上機嫌で「じゃあ、一週間でプランを出すよ!」とハグして別れる。

ところが、春会期が始まり、もうジリジリと暑くなり始めたのに、一向に進まない。
ようやく提案が出てきたときには、もう会期まで1カ月という状態!

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そこから、竹の手配・職人さんの手配・電気設備と布の取付の手配などに掛かりつつ、
予定の予算内で可能な工法等を検討し、Supermachineの西堀隆史さんと
やりとりを同時進行。

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とにかく時間の無い中で、普段扱うことのない竹を、いかに組み合わせるのかに腐心する。
実行委員会には、シルバー人材で大工さんを確保していただくも、
誰に竹の施工を頼めばいいのか路頭に迷う中、別件で事務所に訪れた、
坂出土建工業の営業さんの河津康之さんに「監督さんを一人お願いします!」と泣きつきました。
そして、紹介していただいたのが、主に足場の施工をしている春瀬建設工業さんでした。
今の鋼管足場以前の丸太の足場の施工にも精通し、施工方法などとにかく前向きに協力してくれました。

作業の拠点となる倉庫も確保でき、シルバーさんたちとも初対面で現場に現れたのは、
春瀬建設工業さんの担当者の水門(みと)勇稀さん。
とても若く、とてもやんちゃな感じ。正直、不安でした。()
ところが、彼は素晴らしく機転が利き、現場での判断も的確で、とても助けられました。
未体験の仕事の進め方で、正直、毎日どうなるのか不安要素が多い中、
必ず要所では的確な連絡を頂き、お父さんよりも年長のシルバーさんたちを上手に分担し、
数日のうちに「チーム水門」として機能してくれました!

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一般的な建築では、柱と梁は同じ幅の中で取り合います。
竹は、すべての部材を交差させ留めていくので、そこに集まる部材の、
交差させるその方法が、その見え方と作業性を決定します。
とにかく、ひたすら模型をつくり、理解し整理したうえで伝えることにしました。

タイの布、パカマ布の取付は、高松青年会議所時代の盟友で同級生の石原敬久氏の
「株式会社イシハラ」に、電気工事は、高松青年会議所への入会時の副委員長であり、
現在のぼくの事務所の大家さんでもある佐藤佳生氏の「株式会社エスケイ電業」に頼み込みました。
場所の制約で、夜間の作業もあり、時間の無い中、それぞれ連携し、何とかかたちになりました。

港町高松の顔である港頭地区の再開発でつくられた無個性な空間が、
竹とパカマで、どこか懐かしさを感じる空間となりました。

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2015.06.29

「サンポート高松トライアスロン大会2015」

 「サンポート高松トライアスロン大会2015」が開催されました。

大会当日は、前夜から明け方までの雨の予報が、設営終了直後から

時折激しい雨、そして晴天と、めまぐるしく変化する天候の中、

雨の影響もあり、数件のバイク転倒はあったものの、大きな事故もなく、
 
全国を転戦している選手からも、トライアスロンの協会の方からも、

高松のトライアスロンは、高い評価を得たようです。

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昨年より「ボランティア統括部 部長」という大役を仰せつかり、
今年は2年目となりました。
昨年は、全くの手探りの状態でしたが、今年は、
自分なりにテーマを持って任務にあたりました。

まずは、トライアスロンは「レース」ですから、
競技が安全に行われなければなりません。
その上で、競技に関わっていただく750余名のボランティアさんに、
競技に関わる責務と意義と情熱を持ってもらうことを目指しました。

その具体的施策のひとつは、「ボランティア・サポーター説明会」の
設えです。
昨年は、ミスなく、スマートに業務内容が伝わるように、
各企業さん・団体さんごとに内容を説明したので、
多くの方が、「一堂に会し一致団結結束力を高める」
設えではありませんでした。

今回は、旧四番丁小学校体育館を会場とし、
灘波博司実行委員長から大会に懸ける思いを直接伝えていただき、
説明会後に、少し和んでいただくアトラクションも用意しました。

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また、大会の当日は、真っ暗な午前4時から集合し、
ボランティアさんを受け入れる準備をします。

5時30分、昨年までは、各持ち場のメンバーが揃い次第、
それぞれ持ち場に移動していたのですが、
今年は、ほとんどのボランティアさんとスタッフの前で、
灘波実行委員長にご挨拶をしていただきました。
また、各持ち場ごとになるべく多くの活動記録写真を撮っていただき、
終了後に共有できる仕組みとしました。

前日は、選手の受付と競技の説明会です。
全国各地から集まる500余名の選手への注意事項など。

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夕方からの前夜祭が始まる時点での天気予報は、
翌朝まで降水確率50%。

急遽、ボランティアさんの人数分のカッパを用意してもらう。

翌朝、集合・受付時はまだ降っていませんでしたが、
バイク競技にかかる、7時30分過ぎから突然の雨。
しかも、結構激しく降り始めました。
準備していたカッパをボランティアさんに配布し、
なんとか大丈夫でしたが、巡回中のぼくはびしょ濡れ。(笑)

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競技委員会角田剛バイク部長が、
「これだけ降ると、1週目は転倒が出ます」といった矢先、
90°に曲がる交差点から「ガッシャーン!」の音。
慌てて交差点に向かうと、手前の地下道で部活へ向かう高校生が
いい音で転んでいました。(笑)

しかし、普段は車であふれる、見慣れた街並みが、
雨音と自転車の音だけが響く様は、
昨年以上に、高松の街並みが美しいことを教えてくれました。

そして、最後は、ふたたび瀬戸内海の多島美と、
海からの街並みを望みながらのランとなり、ゴールへと向かいます。

「世界一美しい都市型トライアスロン・コース」は、
さらに、その確信を深めました。

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この大会は、大会への愛情に満ちたスタッフによって成り立っています。
ぼく自身は、その熱意によって突き動かされています。

そして、運営に関わるスタッフもボランティアさんも企業さんも、
「良い大会にしよう!」という思いがひとつに重なる
良い大会だったのではないかと思います。

その運営に関われたことを幸せに思います。

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ひとつだけ心残りなのは、大会と娘の総体が重なり、
全く行けなかったことです。(涙)

しかし、特に大きな問題もなく、
ひとまず大役から解放されホッとしています。

ボランティアさんも、スタッフも、自分の持ち場のスペシャリストとなり、
「ここは任せといて!」となるような、関わる個々人の責務と情熱に満ちる、
そんなボランティア組織になればと思っています。

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2013.04.22

「沙弥島」 瀬戸内国際芸術祭2013 春会期閉幕

3月20日よりスタートした、「瀬戸内国際芸術祭2013」の
春会期はあっという間に最終日。

娘も部活が休みのため、家族で沙弥島へ出掛けました。

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古代インドの世界観において、世界の中心にそびえるの
サンスクリット語の「スメール山」が、仏教とともに
日本に伝わったのが「須弥山(しゅみせん)」。

その世界観からか、沙弥島(しゃみじま)。


この日は、坂出青年会議所主催の「坂出塩まつり」が、
我が師 山本忠司の設計による「瀬戸大橋記念館」前の
広場で催されており、顔見知りと顔を合わせながら、
あれやこれやと昼食。

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まずは、元気と創作意欲の有り余る、ターニャ・プレミンガーの
「階層・地層・層」。

広い芝生の広場越しに近づいてくる作品は、
最初は、土の塊でしたが、見事な芝生となり、
周囲にうまく溶け込んでいます。

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ターニャは英語で、讃岐弁の重機のオペレーターとケンカしながらも
つくり上げられた作品は、おおらかで優美な曲線を保ち、
その小径に誘われる運動は、周囲の見え方とも相まって、
とてもユニークですので是非とも体験されることをオススメします!

この日のように、大人数だと、ルートが決められていましたが、
思うままに、気の向くままにルートを選べる、
混んでいない時間帯がさらにオススメです。


次に、五十嵐靖晃さんの「そらあみ」。
当初は、この作品の沖の消波ブロックに設置を検討していましたが、
紆余曲折を経て、現在の場所へ。
漁師さんたちに編んでもらったあみが、風に踊っています。

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この奥に、これまた我が師 山本忠司設計の「万葉会館」があり、
馴染みの深い場所でした。


沙弥小中学校の会場へ行くと、大変な行列。

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廊下には、戸矢崎満雄さんの「名も知らぬ遠き島より」。
島崎藤村の「椰子の実」ではなく、流れ着いた発泡スチロール。

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真っ暗な教室には、佐久間華さんの「塩の結晶~落ちた玉汗 砂が吸ふた~」。
網に塩を結晶させた美しい作品。

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大畑幸恵さんの「カイソウ-shamijima-」は、海岸に打ち上げられた
貝殻を細かく砕いて貝殻粉とし、それを用いた作品。

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163cmの身長になると、教室に描かれた瀬戸大橋と、
窓の外の瀬戸大橋が連なるという作品。


最後の教室には、林健太郎さんの「SHIRO」は、
実際に設置されている黒板をうまく利用したCG映像作品。

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海へ向かうと、芝生の広場があり、そのナカンダ浜の手前に
ちょっと大きなベンチの作品、藤本修三さんの「八人九脚」。
ここからの瀬戸大橋を抱く瀬戸内海は絶景!

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とてもおおらかで、美しい場所です。


その広場では、万葉ルックに身をまとった子供たちが給仕をしてくれ、
お茶をご馳走してくれました。

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春会期のみの開催となる沙弥島。
そのせいか、開幕から大勢の人が沙弥島へと足を運んでいるとの
経過を耳にしていましたが、なるほど、沙弥島はやはり「島」。
 
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陸続きになっているとはいえ、ゆったりとした、
おおらかな時間が流れていました。

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2013.03.13

山口啓介「歩く方舟」

東北へと向かう、まさに「歩く方舟」です!

当初の計画では、16mの大作!

しかも、先頭の足は海に入っていました!

そこから、構造と予算の関係で、原案に。
http://setouchi-artfest.jp/artwork/a054


舟も、脚も、FRPで作製しましたが、
段々に積層した感じは、FRPでは難しいと
当初から伝えてありましたが、施工を担当した、
「北原建築工房」の北原正敬さんのチームが、
見事にエッジの効いた作品に仕上げてくれました!

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温厚で口数の少ない山口さんですが、
ご自分が納得できないことには妥協しません。

奥さんの作子さんとまさに夫唱婦随で、
作品の完成度を上げるべく、取り組む姿勢に、
作品にかける思いと情熱を見せつけられました!

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設置場所は、女木島から男木島へ向かう際に、
最初に見えてくる小中学校の下の漁港の右手の防波堤。

ここへの設置許可には、建築基準法上の工作物としての、
安全基準を満たすことが必須の条件でした。

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しかも、通常の男木港からの道幅は狭く、搬入不可能。
一旦、漁港へチャーター船で運び、そこからは、
軽トラックに前を載せ、後ろは架台に載せ押して行く。

誰も通らない道なので可能でした。(笑)

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この場所からの瀬戸内海は、とても美しく、
屋島や五剣山、そして島々の描くスカイラインと、
方舟の頂部の凹凸は呼応しています。

組み立てられる様からとてもシュールで、
完成が楽しみな作品です!

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大岩オスカール「鏡の部屋」

瀬戸内国際芸術祭2013の開催まで、1週間となりました!

ですが、まだまだ各作品、追い込みです!(笑)

今回ぼくがかかわっている作品を紹介したいと思います。

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まずは、前回の芸術祭でもお手伝いさせていただいた、
大岩オスカールさん。

前回の作品とは打って変わって、ドローイングなしです!

簡単に言えば、「マジックミラー」の効果を狙った、
とても不思議な空間です。

「芸術」とは、究極的には、網膜にどのように作品が映り込むのか、
その効果の如何が、作品の質を決定します。

「マジックミラー」の原理はわかるものの、
それを実現させるのは簡単ではありませんでした。

うまく行くのかどうか、ものすごく不安で、
年末年始も心が休まりませんでした!

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先日、現場を訪れた、オスカールさんの反応に、
ドキドキしていましたが、マジックミラーの効果には、
全く触れず、拍子抜けしましたが、
予想通りの効果が出てたものと解釈しました!(笑)

写真は、あくまでも制作の過程です。

http://setouchi-artfest.jp/artwork/a056_3


完成は、お楽しみに!

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2012.07.02

「Black Slide Mantra」

札幌市の中心部、大通り公園に、
イサム・ノグチの黒い滑り台があります。

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「ブラック・スライド・マントラ」

モエレ沼公園の計画と同時に、この計画も始まりました。

というよりは、ふたつの公園を分断する道路を指し、
「ここなら置いてもいいね!」と。

ということで、道路は、自らが分断していた
隣り合うふたつの公園をつなげ、そこに設置されました。

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1986年のヴェネツィア・ビエンナーレ、アメリカの作家として選ばれたイサム・ノグチは、古典的なアメリカ館の前に、
白い大理石でつくられた、滑り台「スライド・マントラ」を作成。

冬の雪景色の中でもその存在を示すよう、黒い花崗岩でつくられたのが、

「ブラック・スライド・マントラ」です。

後ろの穴から螺旋状に階段を上り、螺旋の滑り台を滑り降り、
そのまま壁づたいに数歩行くと元の穴に戻るという、
無限の循環運動になっています。

制作段階で、何度も滑り台を滑り、そのスピードを指示したようで、
いわば、追っかけのようにしていた安田侃さんに、
「芸術とは、子供のお尻で感じるものですよ!」と、
いたずらっぽくおっしゃったようです。

白くやわらかい大理石とは違い、黒い花崗岩は、
周囲の気を集めるかのような存在感を放っています。

高松のイサム・ノグチ庭園美術館に「エナジー・ヴォイド」という作品がありますが、それと同じように、深みのあるツヤの出る一歩手前のマットな仕上げ。

それはどこか、記憶と重なるもので、50歳で稼業を息子たちに任せ、
引退し、書道家となったおじいちゃんが、学校で買ったぼくが使っているものとは明らかに違う「硯(すずり)」に、墨汁ではなく、墨を擦った時の、吸い込まれるような黒。

それは、威厳に満ちた表情を生み出しています。

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ぼくが、ここを訪れたのは、北海道に前代未聞の台風が上陸した翌日。
早朝、ホテルから、ジョギングを兼ねてこの場を訪れました。
滑り台には、やや水滴が残っていましたが、そんなことを気にも止めず、
滑り出すと、水滴のせいか、ウォータースライダーの如き猛スピードで、あっという間に地面に放り出されました!

一瞬の出来事で、驚きましたが、同時に恥ずかしく、
周囲に人がいないことを確認し、濡れた衣服に気づかれないように、
人通りの少ない道を選んで、命からがらホテルにたどり着きました!

貴重な体験でした!

ちなみに、翌日、通常の状態でリベンジしたことをお伝えしておきます。

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