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2014.11.10

追悼 神谷宏治さん

 世界的建築家 丹下健三の片腕、
香川県庁舎も担当した建築家 神谷宏治さんがご逝去されました。

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昨年、丹下健三生誕100周年ということで、
東大の建築史を専門とし、丹下さん公認の伝記記述者で、
丹下健三研究の第一人者である藤森照信氏に加えて、
丹下健三の片腕として長年丹下さんに仕えてきた
神谷宏治さんをお招きしてシンポジウムを開催することとなりました。

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 そうなると、コーディネーターが必要となり、
その大役をぼくが担うこととなりました。

 大変な重圧を感じる大役ではありますが、丹下健三という建築家に、
そして、丹下健三に精通するお二人の「丹下健三観」に肉薄する
またとない絶好の機会と捉え、準備を始めました。

 このあたりのことは、以前にも記しましたので、ご覧ください。
http://yharch.cocolog-pikara.com/blog/2014/01/post-c6f9.html

 複数の方を相手に進行する場合、話が散逸しがちなので、

あらかたの流れと時間配分を決め、お二人に内容を確認していただき、
意見を伺いながら準備を進めました。

 藤森さんは、2008年の香川県庁舎竣工50周年の講演会、
2009年の建築士会の中四国ブロックの際と、お会いしており、
フランクな人柄で、進行の内容も、あまり細かな要求がないことは、
想定していました。

 神谷さんは、進行について、こちらが迷っているところを

短く端的なメールで的確に疑問を投げ掛けられました。

しかし、こちらがそこで決めたことは何もおっしゃいませんでした。

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当日、藤森さんは雑誌の取材旅行から直接会場入り。このあたりも、「気にしなくていいから」という感じ。神谷さんは、お昼前の飛行機で高松に。少しでもお話が出来たほうが良いと思い、佐藤竜馬さんと空港までお迎えにあがりました。ご高齢なので、どのような様子なのか少々の心配もありましたが、「矍鑠」と表現するのが失礼なほど、背筋もしゃんとしているし、真摯な生き方が溢れている、ダンディで風格ある様に驚きました。

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師山本忠司は、様々な建築家・アーティストと交流がありましたが、その中でも、神谷さんの話をする時は、特別なニュアンスを持っていました。そのせいか、こちらの特別な思いもあり、最初は中々話しかけられませんでした。うどんを一緒に食べ、車で香川県庁舎へ。一旦控え室にご案内し、県庁ホールを歩きながらいろいろな話を伺うことができました。そうしながら、ぼくは、少しずつ緊張がほぐれて行くのがわかりました。

 控え室に戻ると、藤森さんが到着。お二人に、最初から進行の説明。というよりも通し稽古。藤森さんでも年代が曖昧なものもあるようで、尋ねられましたがぼくの頭には年代はしっかり記憶されています。ステージは披露されなかったお話も交え、リラックスした中で良い準備が出来ました。

   壇上での様子は以下のHPにまとめました。
http://kenzotange100-kenchikunomirai.jimdo.com/
 駆け足ではありましたが、何とか建築家丹下健三の人となり、そして、「香川県庁舎」への道程をご紹介できたのではないかと思います。

 今回の講演会を振り返って、師山本忠司が神谷さんのことを特別なニュアンスで語っていたことが少し理解できたように思います。「香川県庁舎」は、香川県にとって特別な建築です。芸術としての「建築作品」としても、建築家丹下健三の傑作でありひとつの頂点です。そして、郷土復興の記念碑である県庁舎を気鋭の建築家丹下健三に託そうとした猪熊弦一郎の熱量。それを受け、戦後の「民主主義」は、県民に開かれたものであるべきであり、それを体現することを丹下健三に託した金子正則元知事の熱量。それを見事に建築としてかたちに顕した丹下健三の熱量。そして、丹下健三を傍らで支えた浅田孝の熱量。同じく丹下研究室の顔として現場にあたった神谷宏治の熱量。香川県の技官として、良い建築とすべく現場で陣頭指揮を取った山本忠司の熱量。これらの、莫大な熱量が「香川県庁舎」を特別なものとし、その熱量は、その後香川で仕事をすることとなる気鋭の建築家・アーティストに伝播し、良い作品がたくさん生まれたのだと思います。そして、今もなお「香川県庁舎」は衰えることなく、甚大な熱量を放出し続けているのです。

 とにかくその端緒となった「香川県庁舎」。山本忠司は、この「香川県庁舎」の現場を預かるものとして、神谷さんと全身全霊を込めともに戦い、傑作に至らしめたという意識が強いのだと思います。神谷さんとは「戦友」の如き思いを持っているのだと。そう思いました。

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 講演会の打上げの席で、神谷さんと藤森さんから、
「よいシンポジウムだった」と、褒めていただき、少し安堵しました。

 神谷さんに対して、ぼくは特別な感情があり、
お会いしている間、不思議な感覚でした。
 存在は知っていても、会うことのなかった親族、
それも「祖父」や「父」といった濃い関係の親族のような。
 神谷さんも、少しずつ特別な感情でぼくを見てくれているような。

 数日後、神谷さんから手紙が届きました。

 まずはお礼を述べられ、講演会が「かなり好評」であったと伝え聞き、
「今回の成功は林さんのお蔭です。重ねて深く感謝いたします。」
とあり、少しでもお役に立てたのかと、涙が止まりませんでした。

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 文末に「また高松でお会いしましょう。」とあったのに、
結局叶うことが出来ませんでした。

 神谷さんは、香川県庁舎をはじめ、日本の戦後復興から高度経済成長期に、丹下健三が手掛けた国家的プロジェクトである「代々木オリンピック・プール」や「大阪万博お祭り広場」など、後世に残る傑作を丹下健三の片腕としてサポートしてきた人です。
 師山本忠司同様、自身が建築家でありながら、自らが関わった建築に深い愛着を抱く、稀有な存在です。

 神谷さんの訃報を耳にした時、驚きませんでした。
覚悟していたからです。
 「会えない人」と思っていた神谷さんに、
最後に深くかかわり、通じ合う時間を持てたことを幸運に思います。
 しかし、まだまだ、たくさんお話を伺いたかった。

 ぼくにとって、生涯忘れられない人が、また亡くなりました。

 心よりご冥福をお祈りすると共に、全身全霊を掛けて、
建築の可能性を模索し続けること、建築の魅力を伝え続けることを
約束したいと思います。

 神谷宏治さん、ありがとうございました。
 安らかにお眠りください。

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