学生時代、建築を学んでいく中で、
先輩や後輩、同級生、そして、多くの先生と会話し、
悩み、考え、気づいたことは、大きな財産。
自分の考えを伝え、議論する。
特に先輩たちには、自分に欠けている知識、経験を補うための、
適切な助言、アドバイスをもらった。
体験を交え、「この建築について、こう考えたが、どう思う?」
「この本には、こう書かれているが、読んでみたらどうか」。
陣内秀信の研究室には、学部の学生が十余名。
国内外、学内外からの大学院生、研究生が30名近く。
研究テーマの近い年長の院生が、後輩の研究の面倒を見る
というスタイルが何となくできていた。
この年代は、建築に対する具体的な興味が芽生え、
考え方を築いていく時期。
この時期にどんな人と巡り合うのかは、大変重要だと思う。
そうした経験から、建築の教育に携わることに強い関心があった。
独立以来10年、ポリテクカレッジと穴吹デザインカレッジで教えている。
教え始めたのが30歳。
まだまだ、自分自身が建築を模索している時期。
その分、ゼミで面倒を見た子には要求が高く、
随分、自分の考え方を悪く言えば押し付けた。
習うより慣れろ。
ぼくの実践する姿を見せるのが何よりだと考えたからだ。
結果、うまくいかなかった。
大切なのは、その子の潜在的な興味や
大袈裟に言えばアイデンティティを引き出し、
それを具体的な設計の行為と結びつける。
設計という行為を通して、自分とはどんな人間であり、
どうなりたいのかを実感させる手助けをする。
そう考えるようになった。
だが、それを実践するのは容易ではない。
こちらにそれ相応の覚悟とエネルギーが必要だ。
今、少年野球で、コーチをしている。
娘とは保育園時代からの長い付き合いの男の子。
小学3年生の彼は、野球が大好きだ。
背も大きく、強く速い球を投げ、力強いスイングで遠くに飛ばす。
非凡な才能がある。
我が子なら、毎日一緒に練習し、野球を教えたいほど愛おしい。
だが、例えば捕球姿勢を身につけるための、
ゆるいゴロ基礎の反復練習をいい加減にやる。
股関節が堅いので捕球姿勢が低くできないのに、ストレッチも適当にやる。
なぜその練習が必要なのかは、具体的に伝え、分かったと言うが、
先日、あまりにいい加減なので、強く叱った。
本気で叱った。
我慢強い彼が、ひっそり泣いていた。
しかし、考えてみればまだ小学3年生。
彼が、集中して、本気でやろうとするような設えが
足らなかったのかもしれない。
「育てる」とは、手元の辞書にこうある。
一人前になるまで(完成するまで)の過程をうまく進むように、
世話をやき助け導く。
育てることは本当に難しい。
本気であればあるほど難しい。
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