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2006.06.30

東京讃岐会館

三田に、大江宏の設計による東京讃岐会館がある。
現在は、喜代美山荘の運営による「東京さぬき倶楽部」。
10年振りに訪れた。
その佇まいは、山の手の地霊を体現したかのような品格と重厚さがある。

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ホワイエは、空間の重心が低く、奥の手入れされた日本庭園に
自然と意識が向かうように導かれる。
そのホワイエには、ジョージ・ナカシマのソファが

たっぷりと置かれている。
大江宏の空間に、ジョージ・ナカシマの家具という組合せは、

至極贅沢である。

大江宏は、明治神宮宝物殿などを手掛けた、新太郎を父に持ち、
幼児期の日光での宮大工との生活に始まる日本の伝統的な
建築のありかたを肉体的記憶にもちながらも、
近代建築の洗礼を受け、その間での相克が大江の建築の根源にある。

東京大学では丹下健三と同期。

共に、日本の伝統と近代建築との間に身を投じ、
その成果を「香川県庁舎」と「香川県文化会館」に現した。
丹下健三はひとつの形として伝統を捉えたが、
大江宏は、それらが生み出される混沌まで立ち戻り、
その間の相克を、人生を掛けて挑んだ建築家である。

大江宏。丹下健三。イサム・ノグチ。ジョージ・ナカシマ。

自らのアイデンティティを、内奥まで見つめ、
それを作品に投影した稀有な作家が、
香川と深い関係を持つにいたる必然があったことは、
大変興味深い。

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2006.06.22

あさがお と ばあちゃん

娘は、小学校2年生。
今年、小学校のPTAの副会長をすることになり、
担任の先生に挨拶に行き、話していたときのこと。
「お父さん、深音(みお)ちゃんのあさがおの話ですけど」
「んっ?何のことですか?」
「あれ、聞いてませんか?」
「すみません(汗)」

学校で、あさがおを育て、観察しています。
あさがおはきれいな花を咲かせますが、
しおれてくるとくしゃくしゃになり、
でも、その後、それが新しい生命を生む種になります。
そこで、先生は、しおれてくしゃくしゃの花をどうしたらよいのか、
子供たちにディスカッションさせたようです。
その中で娘はこう発言したそうです。

しおれてくしゃくしゃになっても大切な命だ。
だから、摘み取るようなことをしてはいけない。
私は、1歳のときに自分を大切に育ててくれた
ばあちゃんが死んだ。
私はばあちゃんのことを忘れないし、
生きていて欲しかったけど、命ははかない。
だから、大切にしなくてはいけない。

大粒のなみだをポロポロと落としながら。

先生は、昨今、生命を大切にするという意識が低くなる中で、
また、この年齢で、たったしおれたあさがおのことで、
ここまで深く認識していることは凄いことです、
と、言ってくれました。

褒められたことよりも、
娘がそう思ってくれていることがうれしかった。

今日は、ばあちゃんの生まれた日。

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2006.06.17

イサム・ノグチ展

昨年末の東京都現代美術館での展覧会に続き、
今、横浜美術館で開催されている展覧会を観てきました。
この後、滋賀、高松と巡り、9月末からの高松市美術館での展覧会の際、
一般の方向けにワークショップをすることになり、その下見も兼ねて。

イサム・ノグチさんは、ぼくにとって、
人として、また、表現者として特別な人です。
イサムさんの作品は、「綺麗」だとか「美しい」という言葉では
表現できない、生命の持つ根源的な力強さのような
特別な「力」を持っています。
正確には、彫刻家イサム・ノグチが作品に、
そのような「力」を持たせるべく、
素材とかたちを注意深く与えています。

展覧会の作品は、すでに見たものがほとんどでしたが、
今まで、何を見ていたのかと思うほどに発見の多い展覧会でした。
晩年、牟礼で制作するようになってからの、
自然石と対峙するかのような作品はほとんど無く、
どれも、イサムさんの手によって生み出された作品ばかりでした。

イサムさんの作品は注意深く見れば見るほどに、
その根底にある、生まれてきたことへの喜びや、
それに不可避に伴う、自らの生い立ちと向かい合い、
自らの内奥を深く抉り出すという行為がもたらす
時には恐ろしいほどの悲しみが湧き出してくる。

「母子像」(‘44-47)は、愛しそうに小さな子供を抱き、
頭をつける母に、照れ臭いのか、少し離れようとするような子供。
母に愛されながらも、早くに離れ離れの生活を余儀なくされた
イサムさんの母ギルモアに対する複雑な心根が現れているのでしょうか。

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庵治石の産地 牟礼にアトリエを構えたものの庵治石を使った作品は
ごく僅かであるが、その中の作品のひとつが「幼年時代」(‘71)。
四角い石を、丸みを帯びさせるように叩いているように見えるが、
しばらく見つめていると、坊主頭の少年が、怒ったように、
また、悲しそうに、拗ねたような表情に見えてくる。
自分自身が体験することの無かった、無垢な家族を目の当たりにし、
そこに、擬似的に参加することで母への思いを
重ねることのできた場所、牟礼。
その牟礼に制作の現場を設けて以降の作品であることと、
その場や地域のコミュニティーを結び付けている庵治石で
制作されたことに、その思いの深さが伝わってきました。

まだまだ深き、イサムさんの世界を見せつけられました。

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