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2005.09.01

朝夕の風が、秋へと向かう気配を感じさせる今日この頃。

この夏に感じたことを書きそびれたので、
遅ればせながら。

今年は、終戦から60年。
一応それに関する報道はあったが、大イベントとして
振り返るわけでもなかった。
10年前の50年目のときにも同じことを感じた。

ジリジリと照りつける暑い夏が大好きだった少年時代。
野球に明け暮れる日々、夏の甲子園はTVにかじりついていた。
暑い日差しになぜか静寂さを感じるのは、
終戦記念日の正午、試合が中断し、黙祷を捧げる場面が、
その出来事の深刻さを増幅させるからだろうか。
はたまた、お盆の雰囲気がそうさせるのか。

第二次世界大戦が、どのようなものだったのか。
天皇の意義と責任。内閣府の権限と責任。
どうやら、このあたりのことをしっかりと見つめることを
避けてきたことに、現在日本の社会が抱えている膿の
原因があるのではないかと思う。

何かアンタッチャブルとしてしまっているし、
そうしないと前へ向いて歩き出すことも困難だったことも
大きな要因だと思う。

戦後の復興に際し、日本はアメリカに完全に服従することに
民衆も激しい抵抗をしてきたのに、今は単なるイエスマン。

いまは、内的確かさを持った共同体となる大きなチャンスの時。
だからこそ、過去をしっかりと見つめる必要があると思う。
国際化とは、英語を話したり、他の地域と国々の
生活や文化を知ることではない。
自分たちの国や地域のことをしっかりと認識することだ。

戦争を実際に体験した人たちもどんどん少なくなる。
そうした人たちの中から、重い口を開き、
封印していた記憶を後世に伝える動きが出てきたことは
よい流れだと思う。

戦後の復興を一身に背負い、既成の社会に激しく抗った、
新しい日本をつくろうとしてきた団塊の世代が、
リタイアする時代になった。
彼らは社会を自分たちが描いたものに近づけることができたのか?
期待していたのはぼくだけか?

日本という国が持っていた文化をはじめとする
高いポテンシャルは、もはや使い果たされ、
もうそろそろ何かをつくりだす時。

「国」という言葉と、その概念が気恥ずかしさを伴っているのは、
戦争の意味を置き去りにしているからに他ならない。

「共同体」ならどう?

「社会」という言葉は観念的過ぎる。

スロー・コミュニティ。

ちいさくても熱量をもったコミュニティの創造。

英語では、事象を総括する意のsummaryの語源は
「夏=summer」から。

そして、物事のサイクル「60年」を迎え、
新しいサイクルへ。

そんな夏になればいいなと思う。

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